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ファミ通コネクト!オンVol.45にて掲載した怪談特集で、怪談文芸を長年探究し、怪談専門誌『幽』の編集長も務める東雅夫さんに話をうかがった。この内容があまりにおもしろい! そこで誌面には収まりきらなかった全文を掲載。怪談とはそもそも何なのか? 信じる人と信じない人の付き合いかたは? じっくり楽しんで読んでくださいね。
●怪談はコミュニケーションツールなんです
──怪談とは何でしょう?
東雅夫さん(以下、東) 簡単に言ってしまうと、国語辞書にも書いてあるように、幽霊やお化けの話、得体の知れない怪しい話というような定義になります。さらに言えば、日常生活の中ではあり得ない不可解な体験を、誰かに語ったり読ませることで、相手を怖がらせたり驚かせたり、ときには感動させたりする営みではないかと考えています。 ──『口裂け女』など、都市伝説と言われるものとの違いは? 東 何が怪談で何が都市伝説なのか、その境界線は人によって微妙に捉えかたが異なりますが、基本的に、怪談とは、誰か特定の人間が見聞した体験談です。これに対して都市伝説というのは、ある条件のもとなら誰でも体験できることだとか、いわゆる噂話とか風説の類が該当します。某ファストフード店で使っている肉はじつは……みたいなね(笑)。似たような内容の話であっても、ある店で働いている人が実際に怪しげな体験をした、と語れば、それは怪談になる。 ──語り手、発信者がはっきりしているものが怪談なんですね。 東 そうですね。ただ怪談の中にも、往々にして“友達の友達”などという、よく都市伝説で語り出しに使われる、語り手が特定できない話も混在していますから、ややこしい(笑)。というわけで昨年から始めた“『幽』怪談実話コンテスト”では、実際に特定の誰かが体験して語った話でなければ応募できないという規定を設けました。 ──それは、原因のまったくわからない話でも受け付けるのですか? 東 もちろんです。原因がわかっていたら怪談としての魅力は半減します。原因のわからない、日常では考えられない不条理なことだからこそ、怪談になるのです。たとえば……夜中ふと目をさましたら、天井の近くに生首が浮かんでいる姿を見てしまったとします。すごくイヤなシチュエーションですけどね(笑)。そのとき、人は生首に対しての怖さ以上に、なぜそんな現象が自分に起こっているのかわからない、平穏な日常が一瞬で突き崩されてしまったところに、より深刻な恐怖を覚えるんですよ。 ──そんな恐怖を、人はなぜ人に話したがったり、聞きたがったりするのでしょうか? 東 根本にあるのは不安の解消、軽減じゃないでしょうか。その不条理を自分ひとりでは抱えきれない。だから、誰かに話して恐怖を共有してしまおうとするわけです。一方、聞く側としても、未知のものに対しては興味がある。いわゆる“怖いもの見たさ”の心理ですね。リアルで怖いことには誰しも出くわしたくないわけですが、体験者から怖い話を聞くことで、自分は安全圏に身を置きながら恐怖を疑似体験できるというのは、一種のエンターテインメントといってよいでしょう。 ──ホラー映画がヒットするのも同じ原理というわけですね。 東 そうです。しかも映画なら、いっそう自分は安全なところにいられますからね。でも中には、安全圏にいるという観客/聴き手の意識を崩して怖がらせるタイプの怪談もありますから御用心(笑)。“伝染していく恐怖”を煽るタイプの作品ですね。有名なところでは、映画『リング』に出てくる呪いのビデオなどがそうですね。うっかり関わったら逃れられない。他人事ではなくなってしまう。そういうタイプの怪談も、昔からあります。 ──生命の危険などを考えると、怖いものには近づかない本能が働いてもいいはずなのに、なぜ怖いもの見たさという心理が生まれるのでしょう? 東 いちばん大きな要因は、死に対する不安の解消でしょうね。モダンホラーの大御所として有名なスティーヴン・キングも、長篇エッセイ『死の舞踏』の中で、ホラーとは「死のレッスンである」という意味のことを言っています。死は誰にでも平等に必ず訪れるけれど、死後のことは誰も知らない。だから事前にホラー映画や怪談本などでシミュレーションすることで、死の恐怖や不安を少しでも緩和しようとするわけですよ。死に対する不安は人類にとっての永遠の課題であり、だからこそ、世界中の宗教でも死後の世界がさまざまに説かれているのですね。 ──怪談は、普遍的な問題に対してのひとつのアプローチというわけですね。宗教だけでなく、どこの神話でも死の起源は重要な描かれかたをされていますよね。 東 日本の神話もそうです。ヒノカグツチを産んだ火傷がもとで死んだ女神イザナミを、男神イザナギが黄泉に迎えに行く。そのときイザナミの姿を見てはいけないというタブーがイザナギに課せられるのですが、彼は禁を破り、無惨に変わり果てた妻の姿を見てしまいます。そこでふたりは袂を分かち、最後に黄泉と現世の境目であるヨモツヒラサカを岩で遮り、岩越しにイザナミが「一日に千人くびり殺してやろう」と言い、イザナギが「それなら私は毎日新しい命を千五百人産み落とそう」と答えるやりとりがなされます。そうして“死”というものが始まったと語られているんですね。そんなふうにして、日本最初の書物である『古事記』に記された創世神話の中に、すでに怪談があるのです。 ──海外の場合はどうなのでしょう? 東 怪談は英語ではゴースト・ストーリーですね。たとえば日本だと、マンションに霊が出るという噂が広まれば借り手がいなくなりますが、イギリスなどは、由緒正しい名家には、幽霊のひとりやふたりいて当たり前。逆にいないと恥ずかしいと言われる(笑)。その一族の歴史が長く、同じ場所に住み続けているという自慢話なんです。そうした幽霊屋敷をめぐるツアーまであります。いかに英国人が幽霊好きかわかりますが、これは怖がっているのと同時に、先人を敬っている意味合いもあるんですね。日本の家屋は木と紙で出来ていて、イギリスのように石造りで長い時間に耐えてきた古い建物などはそれほどありませんから、そういう意味での幽霊屋敷というのは少ないわけです。その代わり“草葉の陰”と言われるように日本では、死者は身近な自然の中に留まっているという考えかたがある。“あの世”とこの世とが地続きな感覚というか。たとえば村里を見おろす山の上だったり、深い森の奥だったり……これは、カミが森羅万象の中に普遍的に存在すると考えるアミニズム的な宗教観にルーツがあるからだと思います。キリスト教のように、死者は天国や地獄に行くのではなく、自分たちの身近に先祖の霊が留まっているという感覚ですね。そんな日本人にとって、怪談は死者との関わりかたを反復学習する場にもなるんです。 ──怪談は、死者とどう付き合うかを説く物語でもあるんですね。 東 河童のミイラや鬼の角といった妖怪の遺物や、幽霊が描かれた掛け軸など、怪しいものがお寺に大事に保存されていることが多いのですが、じつはあれらは、江戸時代にお寺が信徒を増やすために利用していた、参詣人集めのためのプロモーション・ツールなんですよ。江戸時代は社会が安定化して、宗教も現世利益的になっていました。そんな中で、どれだけ信徒を増やしお布施を集めるかを、各宗派・寺院が競うようになった。そのための対策のひとつに、説教僧がおもしろい話をするという趣向があった。いまの芸人さんと同じですよ(笑)。実際に、そういう話を語る人たちの中から、講談師や落語家が登場します。江戸時代の怪談集として最初期の名著に『伽婢子(おとぎぼうこ)』という作品があるのですが、これを書いた浅井了意という人も説教僧でした。彼らが語るおもしろい話とは何かというと、ひとつは滑稽談で、ひとつが怪談。いまと同じですよね。ただ、怖い話をするときに、話だけでは嘘っぽい、そこで「これがそのときの鬼の角です!」というような感じで、さきほどの怪しい遺物を証拠として展示するわけです。江戸時代にはお伊勢参りや、有名な秘仏のご開帳見物など、参詣旅行がブームになっていました。街道が整備されたこともありますが、信仰という名目なら娯楽もおおっぴらにできたというのが要因のひとつです。そんな中で、諸国奇談などと呼ばれる、各地の怖い話をまとめた怪談集も出てくるようになったんですね。 ──その怪談ブームが、現在にも形を変えて残っていると。 東 社会的に関心が集まって怪談が盛り上がる時期と、そうでない時期というのは、時計の振り子のようにくり返されます。ここ10年くらい大きな波が来つつあって、2000年ごろを境にホラーから怪談へ関心が移行した感触を受けますね。『幽』の創刊も2004年でしたし。ちなみに柳田國男の『遠野物語』が、ちょうど今年で刊行から100年目なんですよ。当時、怖い話を語り合う“百物語怪談会”の催しが文壇内外で大いに流行していました。そこで語られた話を、泉鏡花が中心になってまとめた『怪談会』という本なども出版されています。そうした怪談会によく出席していた東北出身の文学青年に佐々木喜善という人がいて、とても怖くておもしろい話をいくつも知っているという評判から、柳田に紹介されたんですね。そのときに披露した故郷の話を柳田が筆録してまとめたのが、『遠野物語』なんです。最初は自費出版で、たった350部しか刊行されなかったそうで。『遠野物語』は民話集とか民俗学の先駆という言われかたをされますが、実際にはそうした怪談ブームの渦中から誕生した、純然たる怪談実話集なんですよ。 ──みんなで怪談を集めましょう、というようなサイトと、ノリは同じというわけですね。 東 鏡花の催していた怪談会もそうですが、非常に近いと思います。その模様が新聞に連載されたりしてね。さらにその記事を見た読者が、自分の知ってる怖い話を新聞に投稿し、それがまた掲載されるような……読者も巻き込んだ参加型イベントになっていた側面もある。鏡花たちの『怪談会』にも、一般の商店主とか芸妓衆も参加していますし。そのあたりはネットベースの「てのひら怪談」、「みちのく怪談」などの試みにも近いし、あるいは『幽』でも、作家さんや学者さん、読者の皆さんの怪談が毎号たくさん掲載されていますからね。そうした現在のノリは、100年前にかなり近い。メディアが紙媒体からウェブに変わっただけなんですよ。 ──100年周期なんですね。 東 歴史を大局的に俯瞰したとき、何かが繁栄に向かい、頂点を極めて、やがて下っていくというサイクルが、おおよそ、それくらいのスパンなんじゃないでしょうか。下っている時期は、社会的な不安を強く感じる時代であって、怪談のブームはその不安にリンクしているとも考えられます。100年前の1900年ごろは、明治維新以来、富国強兵政策を推進していた日本が、日清・日露戦争に勝つことでひとつの達成期を迎え、同時にいろいろな社会的矛盾も噴出して、不安が増していた時代です。当時も、いい学校を卒業したのに就職できない、というケースが多かったそうですよ。昨今の状況にけっこう似ているのではないかと思います。 ──100年前と現在の怪談には、何か違いがあるのでしょうか? 東 舞台設定は時代に合わせたものになりますが、怪異の根本は変わらない気がします。たとえばタクシー幽霊の怪談ってありますよね。女の人を乗せたら途中で消えてしまい、シートが濡れているというような……これとまったく同じ内容で、人力車幽霊という話が100年前に語られていました。さらに遡って江戸時代では、駕籠幽霊ですね(笑)。怪談は日常と密着した中での不思議な体験談です。日常の生活様式は時代によって変わるけれど、人が怖がる対象そのものは本質的に変わらないということですね。 ──いまも昔も変わらないエンターテイメントというわけですね。 東 そうなんです。ひとつ言えるのは、たとえばテレビゲームというエンターテイメントには、ゲーム機などのツールが必要ですよね。それ以前に電源が不可欠だし(笑)。ですが怪談は、何のツールも必要とせずに始められるエンターテイメントなんです。自分と相手がいれば成立する、道具を必要としないシンプルな娯楽。たとえば『コネクト!オン』さんで扱うようなオンラインゲームにも、楽しさはいろいろあるだろうけれど、そんな中でも人と人とが話すこと、コミュニケーションを取る部分は、とてもおもしろい、醍醐味ですよね。好きな話題を人とやりとりするのは楽しいじゃないですか。その意味で、怪談という行為自体が、人類史上最古のコミュニケーションツールなんです。そういうことが、怪談の魅力の根本にあると思います。 ──発信者がいて聞く人がいて初めて成り立ちますからね。 東 家族や友達とでも、あるいはネット上の誰かが相手でも、怪談は身近な人とコミュニケーションを取るためのひとつの手段になり得ます。怪談のコンテストなどに投稿するには、まず話を集めますよね。そんなとき「なにか怖い話、ない?」と、まずは家族や友人など身近なところから聞きますよ。お年寄りが子供たちに怖い話を聞かせるのも、その一例ですよね。コミュニケーションを楽しむのと同時に、地域の伝承や歴史が学べる。また、河童がいるから近づいてはいけない水辺、天狗に攫われるから日が暮れてから通ってはいけない山道など、地域社会での日常生活の中で遭遇しそうな危険の数々を、前もって教えるという重要な役割があります。子供たちも本当に河童が現れるかは半信半疑でしょうが(笑)、水遊びをしているときに、「あ、ここは河童の話の……」と少しは気をつけるようになりますよね。そこが重要なポイントなんです。昔に比べて水難事故が多くなっているらしいのも、そういうコミュニケーションの減少が、どこかで影響しているのではないでしょうか。河童が出るというのもあながち嘘ではありませんからね。水流が激しい場所では足を取られて溺れやすいし、また過去に犠牲者が出たから怪談が伝わっているという側面もある。生き物を殺したら祟られる、悪事を犯せば恐ろしい報いを受けるといった話も、子供たちに命の重さを教える良い機会になっていた。怪談にはそういう効用もあるんです。エンターテイメントだけど、大切な教育や教訓のツールでもある。 ●以下、興味のままに東さんに、東さん個人の活動の起源や、怪談や霊についてなどいろいろとお尋ねした。
──東さんもご年配の方に怪談を聞いたという原体験はあるんですか?東 私の少年時代は、もう核家族化が進んでいましたので、そういう直接的な体験は残念ながら少なかったですね。ただ、母方が秩父三峯講(秩父の霊域・三峯神社に講社を組んで参拝する民間信仰。江戸時代から関東一円で盛んとなった)の信者でしたので、幼いころから父に背負われて神山に登攀参拝していたんです。そうした際に神様のお使いの“御眷属様”にまつわる不思議な話を聞かされたりして、超自然的なものに触れる機会がありました。直接ご年配の方から話を聞くようになったのは大人になってからですね。『ムー』という雑誌の取材で地方に赴き、うかがった怪談奇談を“日本伝説紀行”というタイトルで不定期連載していたので(現在もいちおう継続中)。でも最近は、現地で話をうかがおうとすると、「つい昨年亡くなってねえ……」と言われるケースが本当に多くて、その話を受け継ぐ若い人もいない。古くからの伝承を保存しなければ、という使命感みたいなものも、どこかにあるのかもしれない。 ──東さんはどこから怪談に興味を持たれたのでしょう。 東 やはり最初はマンガからですね。私が最初に自分の小遣いで買った本は、水木しげるさんの『墓場の鬼太郎』でした。初期の『鬼太郎』には土俗的な話も多く、とりわけ独特なタッチの点描で描かれる背景が、とてつもなく魅力的。失われた古き良き日本が、そこには息づいている気がしてね。作家の京極夏彦さんも、そういう郷愁こそ、水木マンガの真髄だという意味のことをおっしゃいますね。そこは柳田國男も同じで、やっぱりポイントは郷愁。『鬼太郎』がアニメ化されたあとの妖怪ブームはすごかったですね。子供たちはみんな妖怪に夢中になった。前後してブームになった特撮映画・ドラマでも、たとえば『ウルトラQ』の話などは、かぎりなく怪談的ですよね(笑)。 ──妖怪や怪獣など、名編集者・大伴昌司さんのお仕事ですね。 東 大伴さんは、一般的に怪獣物やSFの先駆的企画でよく知られていますが、じつは怪談にも関わりが深い方なんです。その名も『THE HORROR』という日本初のホラー同人誌を、紀田順一郎さんたちと作っていたほどで。いまにつながる怪談やホラーの草分けとなるようなエディトリアルのお仕事をされた方ですね。大伴さん紀田さんたちは、お化けの話も大好きで、ときには百物語の会をされたりもしていたそうですよ。 ──その百物語ですが、百話話すと何が起こるのでしょう? 東 実際に100の話が語られる場合もありますが、99話で話を終えるのが通常の作法とされています。昔は行灯の灯心を100本用意して催されていました。話がひとつ終わるたびに1本ずつ油皿から灯心を引き抜いていくんですね。話が進めば進むほど、室内が暗くなる。そして最後の1本を抜けば真っ暗です。そういう中で怖い話を順繰りにしていくわけですから、ときには興奮して異常心理状態にもなるでしょう。それで、天井から巨大な手が伸びてきたなどの幻覚が見えたりとかね。ただ、作家の加門七海さんによれば、若いころに百物語をしたときに、不可解な現象がいろいろ起こったそうですよ。不思議な声や物音がしたり、録音していたテープがところどころ音飛びしていたりとか。私自身はまだ決定的な怪異体験はしたことがありませんが、『幽』の最新号で「女たちの百物語」という企画を催したときに、一座の皆さんが、なぜかチラチラと同じ方向を見るんですね。収録のあと尋ねたら、「誰かが襖の隙間から、のぞいている気がした」と異口同音に……。 ──霊感のあるなしで同じ場所で感じるものが変わりますね。 東 私もまったく感じない人なので(笑)。“視える”方のお話によると、どうやら人によって見えかたは違うようです。たとえば、プロ用のカメラとトイカメラだと、同じ被写体でも撮れる写真は違いますよね。そういうことなんだと思います。視えるという作家さんも、単に視えてるだけで、お祓いなどはできないそうだし。視える人すなわち霊能者というように受け取られたくないとも語られていました。犬や猫が人間には感じないものに反応することがありますが、人間の霊感も、そういう知覚と似たところがあるのではないかと思います。逆に視えない立場からすると、ちょっと憧れもありますよね。当人たちは迷惑してると言いますが……。 ──もし視えてしまったら、どうすればいいのでしょうか? 東 たとえ視えてしまっても、むやみに騒ぎ立てないことが大切でしょう。相手も元は人間や動物(笑)。何らかの理由で、この世に思いが残っているだけです。そもそも相手が人間だとしたら、慌てたり騒いだり怖がったりするのは、とても失礼なことですよね。すべての怪異が自分に災いをもたらすわけではないでしょう。その場で命をとられるなんてケースは、むしろ稀なことのようですからね。伊藤三巳華さんの新刊『視えるんです。』や加門さんの『お祓い日和』、『心霊づきあい』などの本が、恰好のケーススタディになると思いますので、ご一読をお薦めしておきます。 ──心霊スポットなどを訪問するのは危険なんでしょうか? 東 面白半分で行くのは、ハッキリ言ってお勧めできません。心霊スポットと言われる場所は、何か不幸な出来事があったり因縁めいたりしている場所です。そういうところに興味本位で近づくのはマイナスの結果しか生みませんよね。それから現実問題としての危険もあります。少なくとも夜中に行くのはやめたほうがいい。真っ暗な場所も多いので、ケガや事故などの危険がつきものですし、思わぬ犯罪に巻き込まれる危険もあります。騒いだら近隣の住人に迷惑ですし。ただ、そういう場所に行ってみたいという興味が沸くのもまあ、わからないではない(笑)。ですので、そのときは十分に準備をし、できれば昼間に行ってみて、「ああ、こういうところか」と眺めるくらいがいいと思います。もっと時代を遡って、歴史的な古い伝説の残る場所を探訪するのは楽しいものですよ。地域の歴史を知る楽しみもありますしね。城跡や大きな合戦があった場所などは、多くの人間がそこで命のやりとりをしたわけですから、いろいろな妖しい逸話が残るのも当然だと思います。つい先日、『日本魔界伝説地図』という本を監修したのですが、これなどを参考にして、安全快適な怪奇伝承地探訪を試みていただきたいものです。 ──怪談が好きな人と興味がない人は、どう付き合うべきでしょう? 東 お化けを信じるも信じないも自由なのですから、自分の考えを人に強要するのはマナー違反です。怪談体験を押しつけるのも、逆に霊が視えると言う人を頭ごなしに否定したり、怖い話を楽しんでいる人たちをバカにしたりするのも、どちらも無礼な行為ですよね。これは怪談に限らない。ゲームを楽しんでいるときに「ゲームなんてくだらないから止めろ」と言われたら怒るでしょう? ただね、そういうものをまったく信じないよりも、「何かあるのかも?」という可能性を追求していたほうが、毎日がおもしろいと思うんですよ(笑)。それに、現実に霊はあるかないか? というような問題と、娯楽としての怪談を愉しむ行為とは、基本的に別物ですから。怪談ファン、『幽』の読者の中にも、現実には霊を信じていないという人はいくらでもいますよ。その意味で、怪談を楽しんでいる人は、人生の楽しみにおいてプラスアルファがあるような気もする。逆にのめり込みすぎるのも問題ですけどね。ですから興味のない人でも、もし怪談に触れる機会があれば、先入観なしで楽しんでいただきたいと思います。何か新しい発見があるかもしれませんよ。ゲームも遊んでみて初めてわかることってたくさんありますよね。拒絶していてはそこで止まってしまいます。その先が知りたいという欲求は、ゲームにも怪談にも通じるのかもしれません。 7月某日都内某所にて
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